ポジティブ心理学の主要論文

ポジティブ心理学の理論と実践について理解するのに役に立つ、代表的な研究論文を順次ご紹介していきます。
研究者でない方にも楽しめ、その内容は洞察に富むものと思われます。

ポジティブ心理学序文

マーティン・E・P・セリグマン
ミハイ・チクセントミハイ

ポジティブ心理学の父であるセリグマン博士が、「フロー」理論の創始者であるチクセントミハイ博士と2000年に共著した、ポジティブ心理学を世に問う記念すべき論文です。


この論文の全訳を計3回にわたってご紹介していきます。


第1回目は、論文の前半部分より、従来の心理学のあり方を踏まえ、セリグマン、チクセントミハイ両博士がポジティブ心理学を提唱するに至った問題意識について述べられた箇所を扱います。また、ポジティブ心理学と混同されがちな自己啓発系の動きについて、その大きな一因が人間性心理学の流れから由来している様子が説明されています。


第2回目は、論文の中盤部分より、ポジティブ心理学研究の3つの共通テーマ、すなわち、①ポジティブな主観的経験、②ポジティブな特性(本論文では「ポジティブな人格」)、③ポジティブな社会制度、に従って、本論文が掲載されている学術誌「アメリカン・サイコロジスト」2000年1月号の構成について、寄稿者である研究者たちの考え方やその思想的背景に触れながら順次解説しています。


なお、本論文訳に対する理解の一助として、「アメリカン・サイコロジスト」2000年1月号の目次一覧を添付いたします。(目次はこちら)


第3回目は、本論文の締め括りとして、今日のポジティブ心理学の方向性を示唆すべく、「未来に向けての課題」が力強く列記され論じられています。そのうちの一点、ポジティブ心理学が、事後に記述する(descriptive)方法をとるか、または予測して記述する(prescriptive)方法をとるかという問題は、ポジティブ心理学では繰り返し強調される点で、ポジティブ心理学者の間でも意見が分かれています。本論文では、ポジティブ心理学における科学的・実証的アプローチを重視するセリグマン博士の立場を示すものとして押さえておくとよいでしょう。

原文(クリックするとPDFにリンクします)

ポジティブ心理学 序文(日本語訳 第一回目)

(「アメリカン・サイコロジスト」誌2000年1月号)

マーティン・E・P・セリグマン(ペンシルヴァニア大学)
ミハイ・チクセントミハイ(クレアモント大学院大学)

 ポジティブな主観的経験(positive subjective experience)やポジティブな個人的特性(positive individual traits)、ポジティブな組織制度(positive institutions)に関する科学的知識は、生活の質(quality of life)を高めるのと同時に、人生が空しく感じられ、そこに意味が見出せない時に、病状(pathologies)が生じるのを予防するものである。心理学では、これまで、もっぱら病状だけに注目することが主流になってきたので、人生を生きる価値があるものにするポジティブな特質に欠けた人間が模範となる結果となった。希望、智恵、創造性、未来志向(future mindedness)、勇気、精神性(spirituality)、責任、忍耐力については、無視されるか、より信憑性のあるマイナスの衝動の変形と説明されている。「アメリカン・サイコロジスト」誌2000年版の15の論文では、何が幸せを実現するのか、自主性や自律性の効果、楽観性や希望はどのように健康に影響するのか、智恵を形成するのは何か、才能と創造性はどのようにして開花するかなどの問題が論じられている。著者らはポジティブ心理学の枠組みを概説し、我々の知識の欠落を指摘し、次世紀には、個人、共同体、社会の繁栄を可能にする要素を理解し構築する学問と職業が現れるだろうと予言している。

新しい世紀を迎えるにあたり、アメリカ人は歴史的な選択に直面している。アメリカ合衆国は経済的・政治的リーダーシップの頂点にそのまま君臨し、物質的富を増大し続ける一方で、自らの国民や、世界の他の国々の人々の人間的ニーズを顧みない。このような方向をたどれば、利己主義が蔓延し、幸運な人と不運な人との分化が生じ、結果的に混乱と絶望が生じかねない。

このような局面で、社会科学および行動科学は、非常に重要な役割を果たすことができる。これらの学問領域は、経験的に健全であると同時に、理解しやすく魅力的な、よい生き方に関するビジョンを明確に示すことができる。また、どのような行動がウェル・ビーイングやポジティブな個人や社会の繁栄をもたらすかを示すことができる。心理学は、どのような家族が子供に成功をもたらすのか、どのような労働環境が労働者の最大の満足を後押しするのか、どのような政策をとればもっとも強力な市民参加活動(civic engagement)につながるのか、どのようにしたら人々の人生が最も生きる価値のあるものになるのか、などの事柄を実証することに役立つべきである。

心理学者たちには、何が人生を生き甲斐あるものにするのかに関する知識がまだ不足しているものの、人々が逆境でどのように生き延び、耐えられるかについて、かなり理解するようになった(心理学の歴史に関する最近の調査については、たとえばBenjamin, 1992、Koch & Leary, 1985、Smith, 1997を参照のこと)。しかしながら心理学者は、普通の人々がどのようにしたらより良い状況で成功できる(flourish)かについてはほとんど知らない。第2次世界大戦以後、心理学は、その大部分が治療の科学となってしまったのであり、人間機能の疾患モデルの範囲内でダメージを治療することに専念しているのである。このように、専ら病状のみに注目するだけで、充実した個人や繁栄する社会のあり方には目を向けていないのである。ポジティブ心理学の目的は、心理学の主眼を、人生における最悪のことを修復することにのみ執着することから、ポジティブな質の構築へと変えていくための触媒になり始めることである。

主観的レベルにおけるポジティブ心理学の領域とは、価値ある主観的な経験、すなわち、過去を対象とするウェル・ビーイング(well-being)、充実感(contentment)、満足感、未来を対象とする希望と楽観性、現在を対象とするフロー(flow)と幸福感などに関するものである。個人レベルの領域としては、ポジティブな個人的特性、すなわち、愛情や職業(vocation)に関する能力、勇気、人間関係のスキル、美的センス、忍耐力、寛容さ、独創性、未来志向、精神性(spirituality)、有能さ、智恵などである。集団レベルでは、人々をより善い市民に近づける市民的美徳や社会的慣習、すなわち、責任感、慈愛、利他的行為、礼儀正しさ、節度、寛容、労働倫理などに関するものである。

個人的な話が二つある。この論文の各著者が語るもので、どのようにしてポジティブ心理学への展開が必要であるとの確信に到達したか、また、どのようにしてこの「アメリカン・サイコロジスト」の特別号が生まれたかを説明するものだ。
まず、マーティン・E・P・セリグマンの話だが、それはアメリカ心理学会の会長に選出されて2、3カ月後のある瞬間に始まった―

 その瞬間は我が家の庭でやってきた。私が5歳の娘ニッキーと草むしりをしていた時だ。私は子供に関する本を書いているものの、実はそれほど子供に優しい訳ではないことを白状しなければならない。私は目標志向型の人間で、時間にうるさく、庭で草むしりしている時も、実際本気で草むしりを終わらせようとする。だがニッキーは草を空中に投げたり、歌ったり、踊りまわったりしていた。私は娘を怒鳴りつけた。娘は立ち去って、再び戻ってきて言った。


「パパ、話があるの」
「何だい、ニッキー?」
「パパ、私の5歳の誕生日の前のこと、覚えている? 3歳の時から5歳になるまで、私は泣き言ばかり言っていた。毎日言っていた。5歳になった時、もう泣き言は言わないと決心したの。これまでで一番辛いことだったわ。私が泣き言を言うのを止めることができたら、パパもこんなに不機嫌になるのを止めることができるでしょ。」

これは私にとって啓示にほかならなかった。私はニッキーについて、子供を育てることについて、自分自身について何かを会得したのであり、自分の職業について多くを学んだのだった。まず、ニッキーを育てるというのは、泣き言を言うのを止めさせることではないと分かった。ニッキーは自分でそうしたのだ。ニッキーを育てることはむしろ、娘の素晴らしい強み(私はそれを「心の底を見抜く力」と呼んでいる)を伸ばし、育み、それが娘の弱点や人生の嵐に対するバッファーとなるように、その強みを軸にして娘が生きていけるよう手助けすることだと悟った。子育ては、子供の過ちを正すこととは大違いだと悟った。子供の一番の強み、子供が持っている一番得意なものを発見し、それを育むこと、そしてそれらの強みを最もよい形にする場所が見つかるよう手助けすることだ。

私自身の人生はといえば、ニッキーは実に的を射たことを言ったのだった。私はいつも不機嫌だった。私はそれまで50年間をほとんど心の底の雨天に耐えて過ごしてきて、この10年間は太陽の光に溢れた家庭の中で雨雲の存在になっていた。私が得たいくらかの幸運は、たぶん、私が無愛想であるせいではない。無愛想であるにもかかわらず幸運を得たのだ。その瞬間、私は変わろうと決心した。

しかし、ニッキーの教えの最大の意味合いは、心理学の学問と職業に関するものだった。第2次世界大戦前、心理学は三つのはっきりした使命を持っていた。それは、精神疾患を治すこと、あらゆる人々の生活を生産的で充実したものにすること、有能な人を識別し、育てることである。ポジティブ心理学が初期の頃に主眼としたものは、ターマンの天才に関する研究(Terman, 1939)や夫婦の幸せ(Terman, Buttenwieser, Ferguson, Johnson, & Wilson, 1938)、ワトソンの効果的な子育てに関する著作(Watson, 1928)、ユングの生きる意味の探求と発見に関する研究(Jung, 1933)に体現されている。第2次世界大戦直後、二つの経済的な出来事が心理学の様相を変えた。1946年には、復員軍人援護局(Veterans Administrations、現Veterans affairs)が創設され、数千人の心理学者が精神病を治療することで生計を立てる道を見つけた。1947年に精神衛生研究所(設立趣意書に反して、常に疾患モデルを基礎に置いてきた研究所。今や精神疾患研究所と名称を変更すべきだろう)が設立され、学者たちは研究が病理に関するものである場合には助成金がもらえることを発見した。

この制度は多くの利益をもたらした。精神疾患に対する理解と治療において大きな進歩があった。以前は手に負えないとされていた、少なくとも14の障害が、科学に対して治療の鍵を差し出した結果、現在では完治か、かなりの症状軽減が見込めるのだ(Seligman, 1994)。しかしマイナス面としては、心理学の他の二つの基本的使命、すなわち、あらゆる人々の生活をより良いものにすることと、英才を育てることに関しては、ほとんど忘れ去られた。財政的支援により変わったのは研究テーマだけではなかった。心理学者が自分たちをどのように見るかを逆転させる見解が普及することになったのだ。自分たちを保健関係の職業の細分化された一分野の一部に過ぎないとみなすようになり、心理学は被害者学になったのである。心理学者は人間を受身の病巣(passive foci)とみなした。刺激が現れると、反応が誘発される(何と受動的な言葉だろう!)。外的な補強は反応を弱めたり、強めたりする。意欲、生理的要求、本能、子供時代からの葛藤が私たち一人ひとりを振り回す、といった具合だ。

心理学の実験のテーマは、個人の苦痛に対するアセスメントと治療に移った。心理的障害と環境的ストレス要因(両親の離婚、愛する人の死、肉体的・性的暴行など)のネガティブな影響に関する研究は著しく増加した。臨床医は患者の精神的疾患を病気の枠組みの中で、ダメージ(悪い習慣や衝動・被害を受けた子供時代・損傷した脳など)を修復することで治療しようとした。

次に、ミハイ・チクセントミハイの話になるが、チクセントミハイは第2次世界大戦中のヨーロッパでポジティブ心理学の必要性を悟ったのだった―


子供だった私は、それまで心地良く身を隠していた自己満足の世界が崩壊するのを目のあたりにした。私の知っていた、成功を収め自信にあふれていた大人たちで、戦争により社会的支援を失うやいなや、途方にくれ意気消沈してしまう者がどんなに多いかに気付いて驚いてしまったのだ。仕事や金や地位がなくなると、そういう大人たちは落ちぶれて抜け殻のようになってしまった。しかし、周囲の混乱にもかかわらず、誠実さや目標を見失わない者も少数だがいた。そのような人たちの持つ落ち着きは、他の者が希望を失わないようにする灯台だった。そういう人々は無傷で立ち上がると思われていた男や女たちではなかった。また、必ずしも最も尊敬されていた人、学歴の高かった人、高いスキルを持っていた人ではなかった。この経験により私は考え込んでしまった。そのような人々の強さの源は一体何なのだろうか、と。

哲学を読んだり、歴史や宗教をかじったりしても、この疑問に対して満足のいく答えは得られなかった。これらの教科書に見られる考えは、あまりに主観的であったり、信念に頼っていたり、疑わしい仮説であることが分かった。私が科学から連想するところの、洞察力のある懐疑的態度や、時間をかけた累積的展開に欠けていた。その後、私は初めて心理学に出会った。最初にユング、次にフロイト、そして1950年代にヨーロッパで書いていた数人の心理学者の著作である。ここに私が探し求めていた解答になりそうなものがあると思った。人生の根本的な問題を扱い、自然科学の忍耐強い愚直さでアプローチを試みる学問だ。

しかし、当時、心理学は学問と認められていなかった。私の住んでいたイタリアでは、医学や哲学の学位を取りながら副専攻科目として心理学の講座を受けることができただけだったので、私は心理学がもっと広く受け入れられていた米国に渡ることを決めた。私が最初にとった授業は、やや衝撃的なものだった。科学が、懐疑的な態度と測定への関心を意味するだけならば、米国では心理学が真の科学になっていることが分かった。しかし、そのような態度と方法論を正当化するビジョンが欠けているように思えた。私は人間の行動に対する科学的アプローチを求めていたが、これにより価値判断のない理解が生じると考えたことはなかった。人間の行動において一番好奇心をそそるのは、平均的なものではなく、ありそうもないことだ。第二次世界大戦の猛攻撃中、良識を失わなかったのは一握りの人間に過ぎなかったが、どのような人間が本領を発揮できるのか、その鍵を握っていたのはそれらの一握りの人間だった。しかし、行動主義心理学者の絶頂期に、心理学は統計力学(statistical mechanics)の一部門であるかのように教えられていた。以来、私は、何であり(what is)、何になる可能性があるか(what could be)を理解するという、人間科学に含まれるべき双子の命題を両立させようとあがいてきた。

10年後、アブラハム・マズロー、カール・ロジャーズ、その他の人間性心理学者が先駆けとなる「第三の道」が、確立されていた臨床的・行動主義的アプローチに新しい見方を付け加えると期待された。寛大な人間主義的ビジョンは広範囲の文化に大きな影響を与え、大きな期待が寄せられた。残念なことに、人間性心理学はあまり累積的に実証的基盤を確立することなく、無数の癒やし系の自己啓発運動を生んだ。その中には、自己を強調し、集合的ウェル・ビーイングに対する関心を軽視し、自己中心性を奨励するものもあった。こうした欠陥が生じたのは、マズローやロジャーズが彼らの時代に先んじていたからなのか、それとも元々の彼らのビジョンに内在的に備わっていたからなのか、あるいは熱狂的すぎる信奉者によるものだったからなのかは、今後の議論で判断されるであろう。いずれにせよ、1960年代の人間主義の遺産は、大きな書店に行けばどこでも目立つ形で展示されている。学術的な基準をある程度満たそうとする本として、水晶ヒーリング、アロマセラピー、そしてインナーチャイルド(心の声)への到達と、書店の「心理学」コーナーには少なくとも10の書棚がある。

ポジティブ心理学の時代がやってきたと確信する個人的起源が何であれ、我々のメッセージとは、心理学が単なる病理や弱さやダメージに関する研究ではなく、強みと徳性の研究である、ということを再確認することである。治療とは、壊れたものを治すことだけではなく、最良のものを育成することでもある。心理学とは、病気や健康を扱う医学の単なる一部門ではなく、もっと広範囲な学問だ。仕事、教育、洞察力、愛情、成長、そして遊びについて扱う学問だ。何が最高最善なのかを探求するにあたって、ポジティブ心理学は、希望的観測(wishful thinking)や、信条、自己欺瞞、一時的流行といったものに頼ったり、間違った論理を用いて適当にごまかしたりなどしない。ポジティブ心理学は、あらゆる複雑さにおける人間の行動を理解したいと望む者に、科学的な方法の中で最良なものを、人間の行動が示す独特の問題に適合させようとするものである。

こうしたアプローチを目立たせているのは予防の問題である。過去10年間、心理学は予防に関わるようになってきており、これは1998年のアメリカ心理学会のサンフランシスコ会議での議長テーマだった。心理学者は、遺伝的に脆弱であるとか、または問題の温床となるような社会に住む若者たちの抑うつや、薬物乱用や、統合失調症といった問題をどうやって予防することができるのだろうか? 心理学者は、簡単に武器を手に入れることができる子供や、親の監督が不届きな子供や、扱いにくい性格の子供の凶悪な校内暴力をどうしたら防ぐことができるのだろうか? 50年にわたり心理学者が学んできたことは、疾患モデルでは心理学がこうした深刻な問題の予防に近づくことにはならないということである。予防における大きな進歩は、ほとんどの場合、弱点の矯正ではなく、体系的な能力形成(building competency)に注目する視点から生じたのである。

予防学研究者は、精神疾患の影響を和らげる働きをする人間の強みがあることを発見した。いくつかあげれば、勇気、未来志向、楽観性、対人スキル、信念、労働倫理、希望、正直さ、忍耐力、フローと洞察の能力などである。この新世紀の予防課題の多くは、若者たちの間にこれらの徳性をどう育むかを理解し学ぶという使命をもった人間の強みの科学を創設することだろう。

これまでの科学は専ら、個人的な弱さや、ダメージを受けた脳の問題だけに取り組んできたため、効果的な疾患予防体制がうまく整備されなかった。心理学者は今や、人間の強みや徳性について大規模な研究を呼びかけていく必要がある。臨床家は、すでに診察室で行っている良い仕事の多くはクライアントの弱点を矯正することではなくて、強みを伸ばすことであると認める必要がある。家族、学校、宗教団体、企業を対象としている心理学者は、こうした強みを育む雰囲気を醸成する必要がある。主要な心理学理論は、新しい強みとレジリエンスの科学を補強するものに変わってきた。主流の理論は、もはや人間を刺激に対する受動的反応器とは見ていない。人間はむしろ、選択や優先する力を持ち、有能で効率的になる可能性を持つ意思決定者か、あるいは悪条件下では無力で希望もないと感じる意思決定者であると考えられている(Bandura, 1986; Seligman, 1992)。この世界観に依存する科学と実践は、大半の主要な情緒障害を直接的に予防する効果を持つかもしれない。そして、さらに二つの副次的な効果があるかもしれない。つまり、心理学者が精神的ウェル・ビーイングの身体に及ぼす影響について学んでいることを考え合わせれば、クライアントの生活を身体的により健康にすることができるかもしれない。この科学と実践は、また、これまで無視されてきた二つの使命を心理学に再構築する助けとなるかもしれない。すなわち、正常な人々をより強靭に、より生産的にすることと、人間の高い潜在性を現実のものにすることである。

(第二回目に続く)

ポジティブ心理学 序文(日本語訳 第二回目)

(「アメリカン・サイコロジスト」誌2000年1月号)

マーティン・E・P・セリグマン(ペンシルヴァニア大学)
ミハイ・チクセントミハイ(クレアモント大学院大学)

本号(「アメリカン・サイコロジスト」誌2000年1月号)について

この序文に続く15の論文では、ポジティブ心理学の標題の下に含まれる可能性のある心理学(さらに広く社会科学)の方向性が著しく多様で複雑であることが示されている。もちろん、あらゆる精選論集と同様に、この序文はある意味で恣意的であるし、また完全なものではない。本号に含まれる数多くのテーマに関して言えば、価値のあるすべての論文を印刷するには、「アメリカン・サイコロジスト」誌の全号をカバーするほどのスペースが必要となってしまうことであろう。我々の望みはただひとつ、これらの魅力的なオードブルが読者の食欲を刺激して、ポジティブ心理学の分野に関連した発表物をさらに幅広く試食してもらうことなのだ。

我々は、この特別号の編者として、本号を冗長に流れることなく包括的に仕上げることに努めたつもりだ。本号の著者たちに対して、議論の知的厳密性を損なうことなく、本誌の読者の非常に多岐にわたる専門性に訴えるよう、一般論的なレベルで執筆するよう要請した。論文は、文献の専門的書評でなく、学際的な関連と実践的な応用に目を向けた、幅広い概論となるよう意図したつもりだ。最後に、我々は、主にベテランの学者たちに寄稿するよう求めた。そのため、何人かのきわめて有望な若手研究者たちは候補から除いたのだが、その若い研究者たちはすでに、ポジティブ心理学の最新の研究について、本誌のあるセクションで扱う部分の編集をする準備に取りかかっている、といった状況だ。

本号における論文に共通するテーマとしては主に三つある。まずはポジティブな経験に関するものである。ある瞬間がその次の瞬間に比べて「よい」と感じるのはどうしてなのだろうか? ダニエル・カーネマンが正しいとすると、いま経験している快楽の質がポジティブ心理学の基本的要素だということになる(Kahneman, 1999, p. 6)。ディーナー(2000, 本号)は主観的ウェル・ビーイングに注目し、マッシミーニとデレ・ファーベ(2000, 本号)は最適経験に、ピーターソン(2000, 本号)は楽観性に、マイヤーズ(2000, 本号)は幸せに、ライアンとデシ(2000, 本号)は自己決定に重点を置いている。テイラー、ケメニー、リード、バウアー、グルーンワルド(2000, 本号)とサロベイ、ロスマン、デトワイラーとスチュワード(2000, 本号)はポジティブ感情と身体的健康の関係について報告している。

もちろんこれらの主題は、状態のようなもの、あるいは特性のようなものと見なすことができる。何が幸せの瞬間を説明するかということも、何が幸せな人間と不幸な人間とを区別するのかについても調査することができる。したがって、ここに示されたこれらの論文の第二の特徴は「ポジティブな人格」というテーマである。すべてのアプローチの根底にある共通点は、人間が自己最適化ができ、自律性をもち、適応性のある存在であるとする見解である。ライアンとデシ(2000)は自己決定に重点を置いているし、バルテスとシュタウディンガー(2000, 本号)は知恵に、ヴァーユント(2000, 本号)は成熟した心理的防衛(mature defenses)に、ルビンスキーとベンボウ(2000, 本号)、サイモントン(2000, 本号)、ウィナー(2000, 本号)、ラーソン(2000, 本号)は図抜けて優れた業績(すなわち創造性と才能)を重点的に扱っている。これらのアプローチの中には、系統だって発達心理学的な視点を採用し、個人の強みが全人生にわたって成長することを考慮に入れているものもある。

本誌の論文に共通する三番目の特徴は、人間も経験も社会的状況に組み込まれているという認識である。そのため、ポジティブ心理学は、ポジティブな共同体やポジティブな社会制度を考慮に入れる必要がある。最も広いレベルでは、バス(2000, 本号)およびマッシミーニとデレ・ファーベ(2000)が、ポジティブな人間の経験を形成する進化的環境について記述している。マイヤーズ(2000)は社会的関係が幸せに貢献することについて記述し、シュワルツ(2000, 本号)は選択の重荷から個人を解放する文化規範の必要性について熟考している。ラーソン(2000)は才覚のある若者の育成のために自発的活動の重要性を強調し、ウィナー(2000)は能力開発に対する家族の影響について記述している。実際のところ、心理学の文献ではかなり珍しいが、これらの論考のすべてが、生態学的に根拠のある社会的状況下での行動に注目している。こうした論文に関するさらに詳細な紹介は以下のとおりである。

進化論的見解

最初の部分は、ポジティブ心理学を理解するのにもっとも広い文脈、すなわち進化論の文脈でポジティブ心理学を位置づける二つの論文で構成される。一部の人は進化論的アプローチを嫌う。それは学習と自己決定の重要性を否定するからなのだが、必ずしも否定する必要はない。これらの二つの論文は、野心的な理論的見解を提示していることに加え、(不思議なことだが)進化論に基づく心理学をどのようにしたら人間の条件の改善に適用できるかについて、興味深い実用例をも提供しているという意味で、例外的なものである。

最初の論文では、デイビッド・バス(2000)が、過去は現在に大きく影響していることを読者に想起させている。バスは、精神のポジティブな状態はなぜ捉えにくいのか、主に三つの理由に注目している。第一に、現代の人々が暮らしている環境は、祖先の体と心が適応してきた環境とはあまりにも異なるために、現代の状況では合わないことがよくある。第二に、進化した苦悩のメカニズムは、多くの場合に実用的である(例えば、嫉妬の感情とは、配偶者の忠誠心を確認するよう人に警告するものだ)。最後に、淘汰は競争的になりやすく、ゼロサムの結果を伴う傾向にある。バスの論文がきわめて興味深いのは、これらのウェル・ビーイングに対する主要な障壁を確認したのち、それらを克服する具体的なストラテジーを概説していることである。例えば、祖先の環境と現在の環境との大きな違いは、人々の他者との関係の変化である。現代の人々は祖先よりもずっと多くの人々に囲まれて暮らしているものの、密接な関係にある人の数は祖先より少なく、そのため、祖先たちが感じたより深刻な孤独感や疎外感を味わっている。このことや他の難局に対する解決法は、論理的枠組みの中で概念的に正当化されているだけでなく、きわめて実用的である。では解決法とは何だろうか? 耐えがたい不安を生みだすリスクがあるとしても、読者が自分たちで見つけ出す方がよいと、我々は考える。

バス(2000)は、自分の議論の確固たる基盤を生物学的進化に置いているが、ファウスト・マッシミーニやアントニエラ・デレ・ファーベ(2000)は、精神的・文化的進化という未開拓の分野に踏み込んだ。ある意味で彼らは、祖先の環境変化における影響を分析的に眺め、とくに「ミーム(思想的因子)」(すなわち人工の産物や価値観)の生成が人間の意識にどう影響し、影響されるか観察することにより、バスが議論をやめたところから出発した。二人は、生命体は自己組織化するものであり、複雑さを増すことを志向するという仮定から出発した。そのため、個人は自分の進化を作り出す。自分の個性を特徴づけるミームの選択に絶えず関わり、他の人が選択したミームに加えられれば、その文化の将来を形成する。マッシミーニやデレ・ファーベは次の点を主張する。ポジティブ心理学の議論にとって非常に本質的なことであるが、心理的淘汰(psychological selection)は、適応と存続の圧力だけでなく、最適な経験を再現したいという欲求によっても動機づけられる。可能な場合はいつも、人々は、自分が十二分に生きている、有能である、創造的であると感じることのできる行動を選択する。著者らは、全体的進化と調和する個人の発達をという、明確なビジョンに基づく呼びかけを、自分たちの異文化介入の経験から引きだされた事例を示すことにより締めくくっているのだが、それらの事例では、とめどもなく進む近代化によりもたらされたトラウマ的な社会的状況を改善するのに、心理学が適用されている。

ポジティブな個人的特性

第二のセクションには、ポジティブ心理学に貢献する四つの個人的特性(主観的ウェル・ビーイング、楽観性、幸福感、自己決定)を扱う五つの論文が含まれている。過去30年間、広範囲に研究され、一連の感銘深い発見(多くは予想されなかったもので、反直感的なことである)を生んだテーマである。

一連の論文のうち最初のものは、エドワード・ディーナー(2000)により書かれ、主観的ウェル・ビーイングについて知られていることを概観している。この分野におけるディーナーの研究は、今や30年にわたっている。主観的ウェル・ビーイングとは、人々が自分たちの人生について何を考え、どのように感じているか、つまり自分の存在を評価するときに達する認知的・感情的な結論である。実際のところ、主観的ウェル・ビーイングは、人々が通常「幸せ」という言葉によって意味することを、もっと科学的に聞こえるように表現した用語である。主観的ウェル・ビーイングの研究は、様々な理由で批判され得る、むしろ全体的な自己評価に主として依存しているものの、研究結果は称賛に値するもので、首尾一貫している。ディーナーの説明は、主観的ウェル・ビーイングと、気質や性格との相関関係、主観的ウェル・ビーイングの程度の高いグループの人口統計的特性について検討することから始まる。その後、この問題に関する広範囲な異文化間調査を検討し、マクロ社会的条件と幸福度の間の興味深い関係を示唆している。中心的な問題は、個人の価値観と目標が、どのようにして外部的事象と経験の質を仲介するかである。心理学者たちは、こうした調査によって、人々がどれくらい幸せかを決めるものは、何が起きるかではなく、起きることをどのように解釈するかによる、と論じたデモクリトスやエピクトテスのような大昔の哲学者たちの洞察をよりよく理解できるようになるに違いない。

外部的事象と、外部的事象に対する人間の解釈を仲介しているようにみえる気質的特性の一つは、楽観性である。楽観性には、「小さな楽観性」(例:「今夜は、便利な駐車スペースが見つけられそうだ」)も「大きな楽観性」(例:「我が国では何か偉大なことが起きようとしている」)も共に含まれる。クリストファー・ピーターソン(2000)は、関連の第二の論文の中で、この有益な心理的特徴に関する研究について記述している。ピーターソンは、楽観性には認知、感情、動機の要素が含まれると考えている。楽観的な人間は機嫌がよく、忍耐強く、成功する傾向にあり、また身体的に健康である傾向にある。楽観性はどのように作用するのだろうか? どうしたら楽観度が高まるのだろうか? どの時点から現実を歪め始めるのだろうか? これらはピーターソンが取り組む問題の一部である。この特別号の他の著者と同様、ピーターソンは、複雑な心理的問題について、それらが組み込まれた社会的、文化的状況から離れて理解することはできないことに気付いている。したがって、彼は次のように問うている。悲観的すぎる文化は、その社会構成員のウェル・ビーイングにどのように影響するのだろうか? また逆に、楽観的すぎる文化は、浅薄な物質偏重主義につながるのだろうか?

デイビッド・マイヤーズ(2000)は、このセクションの三番目の論文で、幸せに関する同氏の研究を総合したものを紹介している。同氏の視点は、実証されたエビデンスに厳密に基づきながら、伝統的な価値観が何世代にもわたり存続しているとすれば、そこには重要な真の要素が含まれるはずだ、という信念により示されている。したがって同氏は、この分野ではあまり流行していない問題(宗教的信念と幸せの間に良く見られる関連など)に、大方の人に比べて同調している。マイヤーズが、幸せを増進する可能性があると考えている他の二つのものは、経済発展や所得(多くはないが、最低限の裕福を超えた程度)、および親密な人間関係(強いつながり)である。幸せについては自己報告による調査の相関分析に基づくものだが、この分析結果の頑健さ(robustness)は、時間と文化の違いを超えて繰り返し現れることで、ポジティブな生活の質(quality of life)に貢献する要素を理解することに関心がある者は誰もが真剣に受けとめる必要があることを示唆するものである。

自己決定を主題とする二つの論文の最初のものは、リチャード・ライアンとエドワード・デシ(2000)で、ポジティブ心理学の中心にあり、広範囲に研究されてきた、もう一つの特性について論じている。自己決定理論は、関連する三つの人間欲求、すなわち有能感に対する欲求、所属感(関係性)の欲求、自律性の欲求を研究している。ライアンとデシが主張しているのは、これらの欲求が満たされると、個人的なウェル・ビーイングと社会的な発展の具合が最適な状態になる、ということだ。この状況にいる人々は、本質的に動機づけられ、潜在能力を発揮でき、次第に大きな課題を探し出すことができる。著者は、自律性、有能感、関係性を支える社会的状況の種類と、人間的成長の障害になるものを検討している。とくに重要なのは、自律性を否定するような外的圧力の下で、どのようにしたら自律性を維持できるかについての議論である。ライアンとデシの寄稿は、1960年代の「人間性心理学」が、きわめて重要な経験的研究のプログラムを生み出すことができることを裏づけた。

自律性を強調することは疑いもなく正しいことなのだろうか? バリー・シュワルツ(2000)は自己決定というテーマを哲学的、歴史的観点から取り上げている。シュワルツは、自律性を強調する文化は、ある種の心理的虐待、つまり欲求不満や抑うつ症に通じる過剰な自由をもたらす結果になると懸念している。彼は、人間の動機づけの概念に関する合理的選択理論の影響というものを特に問題視している。自律的選択の責任という重荷は、多くの場合に重すぎることになり、それが不安と後悔につながる。彼が論じるところによれば、世界の大部分の人にとっては、個人的選択は期待されないし、また望まれもしない。文化的制約は、有意義で満足のいく生き方をするために必要である。ライアンとデシ(2000)の自己決定理論では、個人的満足感の三つの要素の一つとして「関係性」を考慮に入れていたが、シュワルツの議論では、文化的規範や価値観に頼ることの利点をさらに強調している形となっている。

心と体の健康に関する意味

ポジティブ心理学に関する議論の一つに、過去50年間に心理学が次第に心の病に注目するようになった結果、普通の(そして非常に優れた)人間の経験がどんなものかについては歪んだ見方を生み出してきた、というものがある。ポジティブ心理学の観点では、「心の健康」はどのように見られてきたのだろうか? 次の三つの論文がこの問題を扱っている。

ベートーベンは31歳のとき自暴自棄になり絶望していたが、20年ほど経て、「歓喜の歌」を作曲し、シラーの詩「抱きしめられよ、数百万の…」を崇高な音楽に変えた。貧しく、耳が聞こえなくなったにもかかわらず、彼はどうやって絶望を乗り越えることができたのだろうか? このセクションの最初の論文で、精神科医のジョージ・ヴァーユント(2000)は、一生涯、あるいは少なくとも縦断的アプローチをとらないと、ポジティブ心理学的なプロセスを説明することは不可能であると読者に想起させている。


「その人が死ぬまで、その人を幸福だと言ってはならない。」なぜなら真のポジティブ心理学的適応は、生涯にわたり展開するはずだからである。数十年間にわたり調査された数多くの成人の症例のうち、三つの大きな症例から得られた結果により、ヴァーユントは利他主義、昇華、抑制、ユーモア、期待といった成熟した自己防衛が、うまくいく人生や喜びの多い人生にどう貢献するかを要約している。ヴァーユントは「自己防衛」という、病理を中心に据えた用語を依然として使っているものの、彼の「成熟した機能」という見方は、創造的で前向きな解決法の重要性を十分に考慮しており、精神分析的アプローチの遺物であった被害者学(victimology)の原型を破壊するものとなっている。

一般的には、自分の置かれている状況に対して、厳密に客観的であることが健康的であるとされている。事実が請け負う以上にバラ色の状況を描くことは病気の兆候と見られることはよくある(本号のPeterson, 2000; Schwartz, 2000; and Vaillant, 2000参照)。しかし、このセクションの第二の論文で、シェリー・テイラーとその共同研究者らは、将来に対する非現実的な楽観的信念は人々を病気から守ると論じている(Taylor et al., 2000)。エイズのような生命にかかわる患者に関する数多くの研究の結果が示唆するのは、楽観的でいられる人々は、もっと客観的に現実と直面している患者に比べて症状が現れるのが遅く、長生きするということである。著者たちによれば、楽観性におけるポジティブな効果は、主として認知レベルで影響する。楽観的な患者は健康を増進する習慣を実践し、社会的支援を得やすいと思われる。病気の進行を遅らせるなど、ポジティブな情緒的状態が直接的に身体的影響を持つということは可能ではあるが、証明されてはいない。テイラーらが注目しているのは、この方向の研究は予防とケアによる健康増進にとって非常に重要な意味があるということである。

身体的健康に対する広範囲での情緒の影響に関する検討を始めるにあたり、ピーター・サロベイと共著者たち(Salovey et al., 2000)は、この分野のほとんどの研究は病理について偏見があるため、ポジティブな感情が健康を増進することよりも、ネガティブな感情が病気を悪化させることの方がずっとよく知られていると残念そうに認めている。しかし、ポジティブな感情とネガティブな感情は一般的に逆相関の関係にあるので、後者を前者に代えれば、予防的・治療的効果の可能性があると論じている。検討された研究には、生理機能と免疫システムに対する影響という直接的効果とともに、心理的・社会的資源の結集や健康増進習慣に対する動機づけなど間接的効果も含まれる。サロベイらが論じている最も興味深い一連の研究には、非常に楽観的で希望を持つ者は、実際には自分の病気について好ましくない情報を受け入れる傾向があり、そのためポジティブな結果予想が膨らんだとしても、現実を認める用意があるというものもある。

優秀さを伸ばす

心理学者が人間の条件を改善したいと望むなら、苦しむ人を助けるだけでは十分でない。大多数の「普通」の人も、より豊かで、より充実した存在になるために、模範や助言を必要としている。このため、ウィリアム・ジェームス(1902/1958)、カール・ユング(1936/1969)、ゴードン・オールポート(1961)、アブラハム・マズロー(1971)などの初期の研究者たちは、精神的エクスタシーや、遊び、創造性、至高経験に関心があった。これらの関心事が医療化(medicalization)や「物理学への羨望」("physics envy")により隠されると、心理学はそのテーマの本質的な部分を無視した。このような無視を正すための意志表示として、本号の最後のセクションでは、正規分布曲線における最も病的な部分と最も反対の部分(最もポジティブな人間の経験を含む端)の現象を扱う六つの論文が提供されている。

知恵は、あらゆる文化において最も称賛される特性の一つである。旧約聖書によると、その価値はルビーに勝る(ヨブ記 28:18)。知恵が年齢とともに備わってくることは広く信じられているが、老年学者バーニース・ノイガルテンは、「バカな青年が賢い老人になるとは期待できない」と述べたものだった。アメリカ心理学会の初代会長のG・スタンレー・ホールは、遡ること1922年に、老年における知恵モデルを開発しようとした(Hall, 1922)が、この問題はその後広く知られていなかった。しかし近年になって、知恵に対する関心が再燃し、どこよりも熱心なのはベルリンのマックス・プランク研究所で、そこで「ベルリン知恵パラダイム」が開発された。ポール・バルテスとウルスラ・シュタウディンガー(2000)は、知恵について、個人的・集合的優秀性を求めて知恵を系統立てるための認知的・動機づけ的発見学習として見る、複雑なモデルを生みだした一連の研究を発表している。知恵は、最適な形で主観的信念として具体化されたものであり、後継世代の経験を通して精選・選択された生命の法則と見られているが、知恵は存在の根本的・実用的問題に関する専門知のシステム(expert knowledge system)と定義されている。

このセクションの第二の論文は、デイビット・ルビンスキーとカミラ・ベンボウ(2000)によるもので、違う種類の優秀性を扱っている。この論文で、著者らは非常に優れた知的能力を持つ子供たちに関する大規模な文献を検討している。素人に対して、知能分布においてどの点で最大の能力格差があるかと聞いたら、典型的な答えは、たぶん能力において他の層と最も異なるのはトップの1、2%にいる英才だというだろう。しかし、著者らが指摘するように、全能力域のうち3分の1はトップ1%以内に見られる。つまり、IQ200の子供はかなり異なっているのであり、IQが140「しかない」英才児とは異なる教育環境が必要である。ルビンスキーとベンボウは、どのようにしてそのような高い能力域にいる子供たちを識別し、育て、相談し、教えることができるかという問題を考察し、そのような非常に優秀な子供たちの潜在的可能性を無視すれば、全体として嘆かわしい社会的損失になると論じている。

心理学における最大の痛烈な逆説は、病理と創造性の複雑な関係に関するものである。チェーザレ・ロンブローゾが一世紀以上前にこの問題を提起して以来、全く反対に思える二つの特性の間の容易でない関係が繰り返し研究されてきた(この問題については、本号のVaillant, 2000も参照のこと)。これに関連する逆説の一つは、最も創造的な大人の中には子供時代に並はずれた逆境で育てられた者がいるということである。この問題と、創造性に関する生まれと育ちをめぐる他の多くの難問は、ディーン・K・サイモントン(2000)の論文で検討されている。プロセスに関する認知、パーソナリティー、発達心理学的次元とともに、創造性を育む、あるいは妨害する環境条件についても検討している。例えば、10年ごとに創造性の寄与率を測定する徹底的な歴史的計量分析をベースに、サイモントンは圧政的な統治に対する民族主義的反逆につづき、一世代後には創造的な成果が多く表れてくると結論づけている。

天才と、非常に優れたパフォーマンスに関するテーマは、前述の二つの論文で扱われており、エレン・ウィナー(2000)によっても取り上げられている。ウィナーの天才の定義は、前述のものより包含的である。それは、早熟で、自発的な子供に関するもので、独自の方法で才能の領域の問題にアプローチしている。今さっき述べた、創造的な個人に関する発見のいくつかとは反対だが、このような子供は適応力が高く、協力的な家族がいる傾向にある。ウィナーは、天才の起源(天才児のやる気や、非常に優れたパフォーマンスの社会的・情緒的・認知的相関)に焦点をあて、このテーマに関して現在知られていることを記述している。この問題に関する他の大部分の論考と同様、何が天才を育み生かすかというような研究成果の実用的意義について、この著者は常に神経を尖らせている。

若者の優秀性を伸ばすことは、リード・ラーソンの論文(2000)のテーマでもあった。この論文は、平均的な学生は学校にいる時間の3分の1は退屈だと報告しているという、不吉で、繰り返し出てくる発見で始まる。少なくとも人生の5分の1を学生で過ごすことを考えれば、これは好ましいことではない。ラーソンは、現代のアメリカ社会の若者は、イニシアティブをとる機会をほとんど持たず、その代わりに教育で外的な規則に受動的に適応することを奨励されていると論じている。彼は、スポーツ、芸術、市民団体に参加することなど、時間をかけて集中的かつ自己決定的に努力する機会を提供する自発的な活動を寄与する可能性を探っている。この論文は、前述の論文(例:Massimini & Delle Fave, 2000; Ryan & Deck 2000: Winner, 2000)でも中心となっていた問題を扱っているが、若者の活動プログラムを自然主義的研究の観点から扱っている。

ポジティブ心理学 序文(日本語訳 第三回目)

(「アメリカン・サイコロジスト」誌2000年1月号)

マーティン・E・P・セリグマン(ペンシルヴァニア大学)
ミハイ・チクセントミハイ(クレアモント大学院大学)

未来に向けての課題

この号に収められている15の論文は、ポジティブ心理学に強力に貢献している。同時に、これらの論文で提起される問題は、認識において大きな相違を示しており、ポジティブ心理学の最前部で問題になる恐れがある。今後10年か20年の間にポジティブ心理学に起きる大問題とは何か、推測できるだろうか?

ウェル・ビーイングの測定法

根本的な認識の相違は、幸福が瞬間的に体験されることと、ウェル・ビーイングが長続きすることの関係性にある。単純な快楽的測定法は、ある人の意識のなかでポジティブな事象を足し上げ、ネガティブなものを差し引き、それを長い期間にわたって集計すれば、その人の全体的なウェル・ビーイングを示す総量が得られることを示している。これはある程度納得できる(Kahneman, 1999)が、この号の論文のいくつかが示唆しているように、小さな幸せをもたらすものは、必ずしも大きな満足につながるものではない。稼いだ所得の額からおいしい食べ物を食べる喜びまで、多くの事例では、収穫逓減点にすぐに到達してしまう。満足感を味わえる刺激の質を左右するメカニズムとは厳密には何なのだろうか?

ポジティビティの発達

人は、Nの時点と、N+1の時点とでは異なる存在であることを理解する必要もある。したがって心理学者は、十代の若者を幸せにするものが、彼らが大人になったときに彼らを当然同じように幸せにすると決めてかかることはできない。例えば、テレビを観たり、友達とブラブラするのは、大半の十代の若者にとってどちらかと言えばポジティブな経験である。しかし、テレビと友達が幸せの主な源になっているために、次第にテレビと友達の比重が大きくなるようであれば、その十代の若者が成長して大人になったときに、より幅広い機会からポジティブな経験を得る能力が限られる可能性がある。長期的なウェル・ビーイングの機会を増大させるためには、どれくらいの満足遅延が必要なのだろうか? 未来志向は、瞬間的な幸せに反する大幅な満足遅延のために必要なのだろうか? 将来の幸せ、または長期的に持続するウェル・ビーイングを構成する子供時代の要素とは何なのだろうか?

脳神経科学と遺伝性

病理学において脳神経科学が盛んになったのは過去20年間のことである。心理学者は、抑うつ症の神経化学や薬理について基本的な概念以上のものを持っている。統合失調症、薬物乱用、不安障害、強迫性障害について、脳の部位や神経経路に関する十分な知識を持っている。これらの病理状態にはすべて反対の状態があるということには注意が払われなかった(研究費も提供されなかった)(LeDoux & Armony, 1999)。フロー、元気さ、現実主義、未来志向、衝動への耐性、勇気、合理的・柔軟な思考についての神経化学と解剖学とはどんなものだろうか?

同様にして、心理学者は、攻撃性、抑うつ症、統合失調症のようなネガティブな状態の遺伝性について知識を得ているものの、遺伝子環境の相互作用や共分散における遺伝子の影響についてはほとんど知らない。心理学者はポジティブな経験とポジティブな特性についての生物学を発展させることができるのだろうか?

喜び(Enjoyment)と快楽(Pleasure)

同じような趣旨で、「快い」ポジティブ経験と「楽しい」ポジティブ経験とを区別することが役立つ。快は、飢えや、セックスや、身体的快適さなど、ホメオスタシス(恒常性)のニーズが満たされることから生じる良い気分である。これに対して喜びは、競技会や、芸術的業績や、善い行いや、刺激的な会話などで、ホメオスタシスの限界を打ち破る時(以前の自分以上に能力いっぱい何かをする時)に人々が経験する良い気分である。人間の成長と長期的な幸せをもたらすのは、快ではなく喜びであるが、機会があれば大半の人は喜びでなく快を選ぶのはなぜだろうか? 読書がフローを生み出す一方で、人々はテレビを観ている間は通常軽い情動不安の状態になると知りながら、難しい本を読むよりテレビを観る方を選ぶのはなぜだろうか?

集合的ウェル・ビーイング

この問題は、個人的ウェル・ビーイングと集合的ウェル・ビーイングのバランスの問題に直接つながる。一部の快楽的報酬は、体系的な観点からするとゼロサムになりやすい。Aさんが高速モーターボートを1時間走らせることで得られるウェル・ビーイングの量と、Bさんが詩集を読むことで得られるウェル・ビーイングの量が同じだとして、モーターボートは10ガロンのガソリンを消費し、200人の海水浴客を苛立たせるならば、二つの経験は同等の重さがあると言えるだろうか? ポジティブなコミュニティやポジティブな社会制度に関する社会科学は生まれるのだろうか?

本物であること

社会科学では、ネガティブな特性が本物で、ポジティブな特性は派生的、補償的、あるいは本物ですらないという共通の暗黙の前提であったが、他の可能性も二つある。つまり、ネガティブな特性はポジティブな特性から派生したものであるという可能性、またポジティブなシステムとネガティブなシステムは別個のシステムであるという可能性である。しかし、二つのシステムが別個のものであるならば、どのように互いに影響するのだろうか? ポジティブな感情を経験し、ポジティブな特性を発達させるためには、困難や苦しみを克服する回復力が必要なのだろうか? ポジティブな経験が多すぎると、弱く壊れやすい性格を作り出すことになるのだろうか?

緩衝効果

ポジティブ心理学が予防と治療への道を見出すにつれ、ポジティブな特性を形成する技法は一般的なものになるだろう。心理学者には、ポジティブな特性とポジティブな主観的経験とを形成する技法がうまく機能すると信じるに足る理由がある。両者は治療において機能し、たぶん予防においてさらに重要な働きをするだろう。例えば、楽観主義を形成することは、抑うつを予防する(Seligman, Schulman, DeRubeis, & Hollon, 1999)。問題は、どのようにして機能するかである。勇気や人間関係スキル、希望、未来志向は、どのようなメカニズムによって、抑うつ症や統合失調症、薬物乱用の緩衝装置となるのだろうか?

事後に記述するか(Descriptive)、予測して記述するか(Prescriptive)

ポジティブ心理学は事後に記述する学問なのだろうか、それとも予測して記述する学問なのだろうか?実現条件、個人の強み、制度、ウェル・ビーイングや所得などの成果の関係について研究することは、単に実証的研究の基盤を生みだす結果になるのかもしれない。このような基盤は、例えば、どのような才能が、どのような実現条件下で、どのような成果を生みやすいかというようなことを説明することに繋がる。この基盤によって、人生の進路に沿った個人の選択については知ることができるだろうが、異なる人生の進路における望ましいことについては知ることはできない。あるいは、ポジティブ心理学は臨床心理学のように予測して記述する学問、例えば抑うつ症の回復経路を説明するだけでなく、説明することが望ましいとされる学問になるかもしれない。

現実主義

楽観性などポジティブな特質や幸福感などポジティブな経験と、現実的であることの関係性とはどのようなものだろうか? 多くの人はこれらが両立する可能性を疑っている。この疑いは当時、フランス共和国の大統領だったシャルル・ドゴールが、あるジャーナリストの質問に対して発言したとされている返答にうまく説明されている。
「大統領、あなたは幸せな人間ですか?」
「君は私をどんな種類のばかだと思っているのかね?」


世界はあまりにも悲劇で満ちており、賢い人間が幸せになることは許されないのだろうか? この号の論文が示唆するように、人間は、人生と現実的に向き合っているときにも、また存在条件を改善するために生産的に働いているときにも幸せでいられる。この見方が正確であるかどうかは、歳月のみが証明することができるだろう。そうする間にも、何を読むと楽しくためになるか、読者が発見できるよう願っている。

結論

新世紀の心理学に関する予言を思い切って提示することで、この序文を締め括ることにしたい。我々は、人間のポジティブな機能に関する心理学が現れ、個人、家族、共同体の繁栄を構築するための科学的な理解と効果的な介入を実現すると信じている。

あなたはこれを夢物語だと思うかもしれない。心理学は、犠牲者や、弱者や、治療者を越えてものを見ることはないと思われるかもしれないが、ついにポジティブ心理学にとって適した時代になったのだと我々は提言したい。我々はポジティブ心理学が新しい考えではないことはよく認識している。ポジティブ心理学には多くの優れた先人たちがおり、我々はオリジナリティー(独創性)を主張するものではない。しかし、先人たちはどういうわけか、自分たちの考えを根付かせるために研究を積み上げ、実証的なものにすることには失敗した。

どうしてこのような研究を引き込むのに失敗したのだろうか? また、心理学はなぜこれほどまでにネガティブなものを重要視してきたのだろうか? 心理学はなぜ(少しの証拠もなしに)ネガティブな動機が本物で、ポジティブな感情は派生的なものだという仮定を受け入れたのだろうか? この説明になりそうなものはいくつかある。ネガティブな感情やネガティブな経験はより切迫したものであるため、ポジティブなものより優先されるのかもしれない。これは進化論的にはつじつまが合う説明かもしれない。ネガティブな感情は、緊急の問題や客観的な危険を反映する場合が多く、必要とあらば人々に立ち止まることを促し、警戒を高めることを促し、自らの行動を振り返り、行動を変えるほど強力なものである(もちろん、一部の危険な状況では、振り返る時間をあまりかけずに反応することが最適であろう)。逆に、人々が世界にうまく適応している場合は、そのような警告は必要とされない。幸福感を増進する経験はすんなりといくからだ。したがって、ある面、心理学がネガティブなものを重視することは、ネガティブな感情に対するポジティブな感情の生存価値の違いを反映しているのかもしれない。

しかし、人々はポジティブ感情の生存価値に気付いていない。それは、まさにポジティブ感情が非常に重要だからである。水の中で泳いでいる魚が水に気付かないように、人々はある程度の希望、愛情、喜び、信頼を当たり前のものと思っている。それらは人々が生き続けることを可能にする条件そのものだからである。これらの条件は存在の基本となるものであり、これらがあると、どんなに多くの客観的障害に対しても、落ち着いて、喜びさえ感じて直面できる。カミュは、哲学の最大の問題は、なぜ人が自殺をはかるべきではないかということだと書いた。抑うつ症を治すだけではこの問題に答えることはできない。生きるためのポジティブな理由も存在するに違いないのだ。

心理学がネガティブに注目したことには歴史的な理由もある。文化が軍事的脅威、物資の不足、貧困、不安定さに直面すれば、当然防衛や損害の防止に関心を向けるかもしれない。文化は、安定し、繁栄し、平和な時だけ、創造性や、美徳や、最高の生活の質に関心を向けるのだ。紀元前5世紀のアテネ、15世紀のフィレンツェ、ビクトリア朝のイギリスは、ポジティブな質に注目した文化の例である。アテネの哲学は、人間の美徳に注目した。何が善い行いで、何が好ましい徳性なのか? 何が人生を最も意味あるものにするのか? この時代に民主主義が生まれた。フィレンツェはヨーロッパで最強の軍事力になることを選択せず、余剰金を美に投資することを選択した。ビクトリア朝のイギリスは、人間の徳性の中心にあるのは、名誉、規律、武勇、義務であると断言した。

我々は、アメリカ文化が今、美のモニュメントを建てるべきだなどと提案している訳ではない。むしろ、豊かで、平和で、安定したこの国家が、世界に歴史的な機会を提供すると考えている。心理学者は、科学的なモニュメント、つまり何が人生を生きる価値のあるものにするのかを理解することを主たる課題とする科学を創造することを選択できるのだ。このような試みは、すべての社会科学をネガティブな偏見から引き離すことになろう。世間に広まっている社会科学では、人間の行為を支配している真の力は、自己の利益、攻撃性、縄張り意識、階級闘争のようなものであると見る傾向がある。このような科学は、最高のレベルにあってさえも、当然不完全なものである。たとえユートピア的な成功物語であろうとも、人間はどのようにしたら人生で最善のことを達成できるか、問い始める必要があるだろう。

この新世紀のポジティブ心理学は、心理学者が、個人、共同体、社会が繁栄することを可能にする要因を理解し、構築することを可能にするだろうと我々は考える。そのような科学は新たに出発する必要はないだろう。大部分において必要とされるのは、科学的エネルギーの方向性を変えるだけである。心理学と精神医学が治療に関する学問となって以来50年間、容易に伝達可能な精神疾患の科学へと発展を遂げてきた。有益な分類法を開発すると同時に、統合失調症、怒り、抑うつなど、あいまいな概念について信頼でき、かつ妥当な測定法を開発した。好ましくない結果に通じる因果経路を理解するために、実験的にも縦断的にも精巧な研究方法を開発した。最も重要なことは、多くの治療不可能な精神的障害を治療の可能性が高いものにし、そのいくつかについては完治できるものにした薬理学的・心理学的介入を開発したことである。重きを置く点と助成金の支出先を少し変えることにより、同じ手法、多くの場合同じ研究室、それに次世代の科学者が、人生を最も生きる価値があるものにする特質を測定し、理解し、構築するために活用されることだろう。ポジティブな人間の特性を研究することの副次的効果は、科学が精神的疾患と一部の身体的疾患の影響を弱め、予防する方法を知ることだろう。主たる効果は、心理学者が、個人と共同体がただ耐え、生き延びるだけでなく、繁栄することに役立つ特質を構築する方法を知ることであろう。

翻訳:平石純子(ロゴセラピー・ゼミナール事務局、ロゴセラピスト)
監訳:宇野カオリ

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